NECを裏切って、自組のPC/AT互換機を作成。
1999年、NECは私を裏切って(妄想)PC-NXに移行しており、世間はPC/AT互換機一色であった。周りの友人もポツポツとPC/AT互換機を購入していたが、しかし私はまだPC-9821V10/S5KCで頑張っていた。CPUはPK-MXP200/98を買ってMMX Pentium/200MHzになってるし、まだまだ大丈夫だいとか強がりを言いながらも、実は新しいマシンが欲しくてしようが無かった。月刊ASCIIの98パワーアップ講座を楽しみに読んでいたが、金がかかりすぎる、というのが正直な感想だった。
しばらく悩んだが、結局私は旧蜂をサブマシンとして新しいPC/AT互換機を購入することにした。1999年6月頃にNANAOの17インチディスプレイ、EIZO E55Dを購入し、準備は整った。(ちなみに17インチで旧蜂の24KHzを映せるものは非常に少なく、選択肢はこれとiiyamaのMT8617ESしか無かった)。
当時も既にショップブランドの半自組PCが売っていたが、2003年現在ほどの激安感は無く、自分でパーツを買って組んだ方が圧倒的に安くつく状態であった。そのため、私は迷わず自組(自作というのはハンダゴテを握ってやるものなので、最近のいわゆる自作PCを私は自組PCと呼びます)を選んだ。
以前から自組PCには興味があり、月アスや月アスDOS/V ISSUE、DOS/Vパワレポ等をよく読んでいたため、知識で困ることは無かった。確か当時はCeleron等のSlot1とK6系のSocket7の二つの選択肢があったが(Socket370もあったかも)、私はスロットは怖そう(理由は無い)なので敬遠してSocket7で組むことにした。月アスでもAMDのK6はコストパフォーマンスに非常に優れ……、みたいな記事が載っていた記憶がある。
しかしAMDのクソヤロウは私がSocket7マザーを買ったすぐ後にSocket7からの撤退を宣言し、それから一週間ほど私は枕を涙で濡らした(嘘)。確かめていないが、たぶんあの発表の直後にSocket7マザーも大暴落したのだろうか。勿体ないことをした。ちなみに2003年現在も私はこの時に組んだSocket7マシンをメインに使っており、ソケ7と心中した男、と呼んでもらって構わない(ぉ。
とりあえず、旧蜂からはPC-MCDR220AD(PD/CD-R複合ドライブ)を持ってくることにして、他のパーツは全部買うことにした。アルバイト代を少しずつ当てていったので、いっぺんに買わずに、2ヶ月ほどかけてボチボチと揃えていった。今考えると、こういう買い方をしていると一つでもパーツに初期不良があった時に非常に面倒くさいことになるので辞めた方が良いと思うけど。
マザーボードは、ASUSのP5A。ALi ALADDIN Vチップセットで、Socket7マシンでは定番どころのマザーである。当時のSocket7マザーはAGPと非常に相性が悪く、AGPのビデオボードはほぼ全て、「Socket7マシンは動作保証外」というシールが貼ってあったりした。その中でもSuper7ことP5Aは比較的その辺が緩かった(と思うけど、記憶違いかもしれない)。
CPUは、K6-2/450MHz。何故これを選んだかはよく覚えていない。たぶん値段が手頃だったからだろうか? ビデオボードは、奮発して3dfxのVoodoo3 3000/AGPを購入した。これも前述の通り「Socket7マシンは動作保証外」となっていたので不安はあったが、問題なく動作した。
他にキーボードやマウス、各種ケーブル類などコマゴマとした部品を手に入れ、全てが揃った所で自組に取りかかった。(この時、デジカメに何枚か撮った記憶があるのだけど、探しても見つからなかった)。特にトラブルも無く無事に起動し、さっそくWindows98をインストールした。インストール後、1024x768で「コンピュータの内部」のテーマを適用してかなり重くしたにもかかわらず、PC/AT互換機は旧蜂に比べると信じられない速度で動いていた。この時のことは、いまでもはっきりと覚えている。旧蜂の遅さが当たり前だったあの時、クッキリとした美しい画面で一太郎が一瞬で立ち上がり、マイコンピュータをダブルクリックすると一瞬でパッパッとフォルダが表示される……あの早さに、冗談抜きで泣きそうになるほど感動した。
しかも、安く買ってきたYAMAHAのYMF-744Sは、簡易ながらもXGでMIDIが鳴らせた。旧蜂ではMIDI機器は高く、WinGrooveを使ったりさんざん苦労したというのに、PC/AT互換機の世界ではいとも簡単にこんなに素晴らしい環境が手に入る……まさにカルチャーショックであった。
こうして私は、NECを裏切ってPC/AT互換機を導入したのである。